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以下は、月刊MOE、2001年7月号に掲載された私の小文です。
梶原由佳(かじはらゆか)
少女時代の体験がちりばめられた「赤毛のアン」
「赤毛のアン」の作者ルーシー モード モンゴメリは、カナダの東海岸に浮かぶプリンス・エドワード島に生まれました。
島が最小の州としてカナダ連邦に加わった翌年の1874年のことです。
母親はモードが二歳になる前に他界。父親は幼子を妻の里キャベンディッシュのマクニール家に預け、その頃開拓の進むカナダ西部へと移住しました。モードは、アンと同じように両親の愛情には恵まれなかったのです。頑固で躾に厳しいマクニールの祖父母に育てられたモードは、「情緒面 で飢えた子ども時代を過ごした」と後年書き残しています。
それでもモードには仲良しのいとこ達や自然という素晴らしい友が周りにいました。祖父の農場は、樺や楓、林檎や桜の木々に囲まれていました。風わたる花々の香りや潮騒の調べ。それら自然の彩 りはモードの想像力を育みました。
早くからペンで表現する歓びを感じていたモードは、九歳から日記を付けはじめ、成長するにつれ詩や短編の創作にも励み、学生時代や教師時代には作品が雑誌に掲載されるようになりました。
20代半ばに祖父と父親が亡くなると、将来を憂え、文筆での自立の道を真剣に考えます。しかし、独り残された祖母の世話をしなければなりませんでした。そのために、教職を辞めてマクニール農場に戻り、家事を終えた夕方に執筆を続けていました。
1905年のある日、少女時代の日記を読み返したり、小説の題材のヒントを書き留めたメモを見ていたモードの心の中に、妖精のような赤毛のアンがぽっと飛び込んで来たのです。アンはまるで生きている少女のようにモードの中で成長していきました。そんなアンにアヴォンリーという素晴らしい環境と温かい登場人物を与え、物語を膨らませていったのです。
人生の曲がり角は1908年に訪れました。幾つかの出版社に断られた後、ようやく「赤毛のアン」が出版されたのです。夢みがちでおしゃべりで、 感情の起伏が激しく、切ないほどに愛情を求める孤児のアン。「私はアンを生身の少女に仕上げたのです」とモードは1907年に記しています。そうして、ストーリーの各章ごとに自分の少女時代の体験を散りばめたとも。周囲の風物に「恋人の小径」や「輝く湖水」と命名して愛おしんだモードは、同じことをアンにさせています。アンが物語クラブを作ったり、ダイアナと友情を誓いあうのも、作者自身の体験からでした。
少女の日常や心模様が巧みに描写された「赤毛のアン」はベストセラーとなり、出版社は続編を早急に書くようにと依頼してきました。モードの人生はアン一色となっていきます。頭痛や睡眠不足に悩まされながら、ニ作目「アンの青春」(1909)を書く頃には「アン」と聞くだけで嫌気がさすほどになっていたのです。
アンとは異なる生き方を選んで
祖母が1911年春に亡くなると、その夏には、以前から密かに婚約していたユーアン マクドナルド牧師と結婚。愛情は感じていなかったものの、家柄や社会的地位 の面でふさわしい相手でした。故郷の島を離れ、夫の赴任地であるオンタリオ州の村に移住すると、牧師夫人として多忙を極めるようになります。教区民の家を慰問したり、日曜学校で聖書の教えを説いたり、地域の奉仕活動に追われながらも寸暇を惜しんで執筆をしていました。村人の目に映ったモードは、作家というよりも、献身的な牧師夫人であり、完璧な主婦でした。ふたりの息子の母親となった後も、筆を折るモードではありませんでした。自分の才能の限界を感じて、結婚後創作を断念するアンとは異なる生き方を選んだのです。
忙しい日々のなか「アンの愛情」(1915)、「アンの夢の家」(1917)、「アンの娘リラ」(1921)と続編を生み出し、自分の果 たせなかった夢を作品の中でアンに託しました。アンは最愛のギルバートと結ばれ、ふたりはロマンチックな海辺の家に移り住みます。新しい土地では腹心の友もでき、こどもたちにも恵まれたふたりは、理想的な家庭を築いていきます。
一方、モードの私生活には次第に暗い影が拡がっていきました。次男の死産、第一次大戦の勃発、出版社相手の法廷争いなど、悲しみと心労が絶えぬ 日々が続きました。1919年には最愛の友が亡くなり、更には、夫が精神的な病におかされていると診断されたのです。自分の殻の中に閉じこもるユーアンの症状は、年々ひどくなっていきました。また、時を経るごとに、モード自身も神経の疲労を訴えるようになります。それでも、ひたすら夫の病状や自分の悩みを隠し、村人の前では笑顔を絶やさぬ 模範的な牧師夫人としてふるまいました。唯一の救いは日誌に悩みを書き連ねることと、故郷の島に思いを馳せながらの創作でした。
1920年代半ば、50代になったモードは疲れ切ったようすでこう記しました--かつてアンに、毎日違う朝がくるのはすばらしいと言わせたけれど、今の私は何もすばらしいと感じない--。
「アンの娘リラ」以降、しばらくの間アンの執筆から遠のいていましたが、1930年代半ばに再び続編にとりかかりました。 若き日々の日誌を読み返し、神経性の病の発作に見舞われながらも震える手でタイプライターを打ち続けたのです。「アンの幸福」(1936)では教師時代のアンをいきいきと描き、「炉辺荘のアン」(1939)では、中年となったアンがギルバートの愛を再確認して幸福に浸る結末となっています。モードは、自分が得られなかった夫からの愛をアンに与え、希望に満ちた世界を描き続けたのでした。
30歳の頃にアンを生み出したモンゴメリは、出版社や読者の願いに応えて、60代半ばになるまで続編を書き続けました。作家モンゴメリの人生は、アンとともにあったといえるでしょう。
1942年4月、労苦に押しつぶされ力尽きたモードはこの世を去りましたが、彼女の生み出した赤毛の少女アンは、時を越えて、今も生き続けています。
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copyright Yuka Kajihara 2001
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