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月刊「eとらんす」2000年8月号に掲載された文章に、やや手を加えたものです。

「赤毛のアンの本棚」第7回
梶原由佳
 

キプリングの猫のように 

ヴィクトリア朝の英国は世界経済や政治の中心地であり、植民地を広げた栄華の時代だった。1907年にノーベル文学賞を授与されたラディヤード・キプリング(1865-1936)は、大英帝国の植民地インドで生まれ育っている。英国で教育を受けた後、再びインドに戻り、作家として名をなしていった。彼の数多くの詩や、インドの密林を舞台にリアルに動物を描いたジャングルブック・シリーズ(1894-95)、少年キムの活躍する長編物語「キム」(1901) などは、モンゴメリのお気に入りであった。  

キプリングが「キム」において男の友情を描いたように、モンゴメリは「赤毛のアン」(1908)で少女の友情をこまやかに表現した。11歳のアンは、「腹心の友」ダイアナを「小さな胸の底から、全身全霊をかけて愛し」、ダイアナが将来結婚する日を想像しては、「私、ダイアナをとても愛しているの。彼女なしでは生きていけないわ。...ダイアナの旦那さんなんか、嫌いだわ。大嫌いよ」と言って、養母マリラを笑わせる。  

こんな密接な少女の友情を描いたモンゴメリにも、アンにとってのダイアナのような「腹心の友」をがいた。9つ年下のいとこのフレデリカ・キャンベルだ。彼女の学費を援助したモンゴメリは、女学校の職を得たフレデリカが遠いアルバータ州に越すと知った時、ひどく悲しんでいる。1912年12月のことだ。この頃38歳になっていたモンゴメリは、オンタリオ州の小さな村に牧師の夫と幼い長男と暮らしていた。もし、フレデリカが遠くへ行ってしまったら、真の友は身近にいなくなると嘆き、フレデリカなくしては生きていけないようだと日誌に記すほどだった。

作家となり、結婚もしたモンゴメリとは異なり、未婚女性フレデリカには独立するための職が必要だったのだ。モンゴメリは、そんなフレデリカをキプリングの作品"The Cat Who Walked by Himself"に登場する猫に例えている。 誰に仕えるわけでもなく気ままに自分の道を歩く猫。キプリングの描いた猫の姿は、主婦として妻として夫に仕えていたモンゴメリの果 たせぬ夢であったようだ。  

フレデリカとの別れは、後の作品に反映されている。「アンの愛情」(1915) では、18歳のダイアナは婚約し、一方アンは島を離れて大学へ進むことになる。「あたしたち、わかれ道にきたのじゃないかと思うわ」とダイアナに言うアン。心理的にも距離的にも離れていくふたりだった。

ダイアナと別れ、大学生となったアンには新しい友達ができる。その中で特異な存在は、見苦しい毛並みのオス猫ラスティだ。他の人にはなつかないラスティは、「キプリングの猫のように『独立独歩』の猫」で、「アンだけを愛した」のだった。  

キプリングの猫のように独立していたフレデリカが、第一次大戦中の1917年に突然結婚することになった時、モンゴメリは言い表せないほどの衝撃を受けている。仕事を好んでいた有能なフレデリカが、一人の男性に仕え、狭い家の中に封じ込められるなんて幸福であろうか!フレデリカ自身は、jobと husbandの両方を持てればと願ったが、当時の結婚は、女性がキャリアを捨てることを意味していた。

最愛の友に幸福になってほしいと願ったモンゴメリだが、不幸にもフレデリカは短い結婚生活を閉じ、1919年1月に病死してしまう。  

モンゴメリは、1920年代に生み出した主人公エミリーに作家として自立する道を与え、亡き フレデリカの素養を託した。エミリーにこう言わせている。「わたしはキプリングの猫にそっくりよ-- 一人で気ままに歩き、好きなところでしっぽを振るわ」  

アンやダイアナが選ばなかった生き方を目指すエミリー。それにしても、 牧師夫人、妻、母親という仮面 を脱いで、キプリングの猫のように自由に人生を歩みたかったのは、誰よりもモンゴメリその人だったのでないだろうか。

文中の訳は以下に依った。 「赤毛のアン」松本侑子 訳、集英社、2000年
「アンの愛情」村岡花子 訳、新潮社
1978年 「エミリーはのぼる」村岡花子 訳、新潮社、1991年

copyright Yuka Kajihara 2001
yuka@yukazine.com

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