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下記は月刊「翻訳の世界」2000年5月号に掲載された文章に、やや手を加えたものです。
「赤毛のアンの本棚」第4回
梶原由佳
アンとアリスの不思議な関係
その3
「赤毛のアン」で一躍有名となったモンゴメリは、これ迄いろいろな作家と較べられてきたようだ。1930年3月1日の日誌に、当時55歳のモンゴメリは書いている。「書評で驚くのは、数多くの作家に似ていると言われること。」そうして、それら20名を越す作家の名を書き列ねているが、その中には、モンゴメリ研究者が比較対象とする作家の名が幾つか含まれている。Rebecca of Sunnybrook Farm(「サニーブルック農場のレベッカ」)の著者ケイト・ダグラス・ウイッギン、「秘密の花園」のフランシス・ホジソン・バーネット、「若草物語」のルイザ・メイ・オルコットや「ピーターパン」のジェームス・バリーなどと列記した後、モンゴメリは次の三名をイタリック体で記している。ルイス・キャロル、ガスケル夫人、ジェーン・オースティン。三人ともモンゴメリのお気に入りであった。
![]() 1908年4月初版 Boston: Page Co. The Osborne Collection of Early Children's Books, TPL所蔵 |
さて、ここで気になるのは、イタリック体で強調された唯一の男性作家ルイス・キャロルだ。当時の書評家たちが、モンゴメリとキャロルの作品をどんな点で引き合いに出したのか知りたいところ。おそらく、キャロルの名が出されるのは、かの有名なマーク・トウェイン(1835〜1910) の言葉が誘因だろう。「赤毛のアン」を読んだトウェインは、秘書を通 じてモンゴメリに手紙を送っている。1908年10月3日付けの便りには、In Anne of Green Gables you will find the dearest & most moving & most delightful child since the immortal Aliceと記された。アンは、不滅のアリス以来の、愛らしくて、人の心に迫る愉快な存在だと、老齢のトウェインはアンを絶賛している。自分の娘たちに「不思議の国のアリス」を読んであげたこともあったトウェインは、その強烈な個性を発散するアンからアリスを連想したのだろうか。(ちなみに、トウェインは親しくしていたウイッギンにも 「レベッカ」について賛辞を送っている。作家として既に名声を得ていた彼は、新人作家にスポットライトをあてる役割をかって出ているところがあった。)商売上手なボストンのペイジ出版社は、アメリカを代表する文豪の台詞を早速「赤毛のアン」の宣伝文句に利用したのであった。 |
アンとアリスを読んでいると、ふたりともおしゃまでおしゃべりだが、かなり異なる個性をもっていることがわかる。そのひとつは、「名前」に対してのふたりの捕らえかたの違いだ。11歳の孤児のアンは、徹底的に名前にこだわる。できればコーデリアと呼んで欲しいとマリラに頼み、「でもアンと呼ぶなら、最後にeの字を綴って呼んで下さらない?」と綴りにまでこだわって自我を示している。また、アンは、自分の名前同様、周りの美しいものに自分なりの解釈で、名前をどんどんつけていく。「歓喜の白い路」や「輝く湖水」など、新たに命名することで、周囲の事物を洗礼して自分のものにしてゆく。一文無しの孤児のアンにとって、想像の域を出ないにしろ、何かを所有するということはたいへん重要なことなのだ。
一方、まだ幼い7歳6ヵ月のアリスは、裕福な家庭に育っているからだろうか。所有欲もないようで名前に関してもこだわりを示さず、また自己喪失への怖れがない。「不思議の国」では身体の大きさがかわって、自分が誰だかわからなくなるけれど、恐れず元気に進んでゆく。 「名前」に対するアリスの考えは「鏡の国」での、大きな蚊との会話に現れている。
「むろん名前を呼んだら答えるんだろうね」蚊が気のり薄に言いました。
「そんな虫なんか知らないわ」
「名前を呼ばれて返事もしないのなら」と蚊は言いました。「そいつら名前をもってて何の役に立つんだい?」
「そりゃあ彼らには役に立たないわよ」とアリス。「でも彼らに名前をつける人たちには役に立つのよ。でなければ、ものに名前がついているのはなぜ?」
どちらかといえば、便宜上、名前が必要と思っているアリスは、次の章で「名なしの森」へ勇敢にも入ってゆく。アンだったら、「名なしの森」で自分の名前がなくなるとなれば、アイデンティティー喪失の危機を感じて大騒ぎするかもしれないが、アリスは結構へいっちゃらだ。
「名なしの森にちがいないわ。入っていったら、私の名前、どうなるのかしら。なくなったらいやだわ--そしたら新しい名前をつけてもらわなくちゃならないし、きっといやな名になってしまうのよ」といたって平気。別に「アリス」でなくっても他の名前でもいいようだ。どうやら森を過ぎて、忘れ去った自分の名前を思い出した時、アリスは「ちょっとはほっとできるわ」と言っている。名前を失うこと、そうして、再び取り戻すことを重大事とは受け止めないアリス。
さて、アンにとって名前とは、その性質を意味する大事な役割をも持っている。胸が締めつけられるほど美しい並木道を通ったアンは、マシュウに問いかける。 「あれほどの場所を、並木道なんていう名前で呼んではいけないわ。それでは何の意味もないんですもの。...そうね、<歓喜の白い路>。これだわ!想像が広がるような名前でしょう?」
一方、アリスは、名前の意味に関してもこだわらない。ハンプティ・ダンプティとのおかしな会話にあどけないアリスが描かれている。
「私の名前はアリスと言いますけれど--」
「なんたる間抜けた名前だ!」いらいらしてハンプティ・ダンプティが口をはさみました。「それ、どんな意味なんだ?」
「名前が何かを意味しなくちゃいけませんの?」いぶかしげにアリスがたずねました。
「不思議の国」と「鏡の国」には、'name'という単語がたくさん出てくる。特に「鏡の国」では、白い騎士(このキャラクターは作者キャロル自身と解釈されている)とアリスが、「名前」について言葉遊びならぬ禅問答をしていることからも、作者自身は「名前」の意義に相当なこだわりがあったと受け取れる。彼は、生涯、数学者ドジソンとしての自分と作家キャロルとを区別して考えていた。
片や、モンゴメリ自身も名前に関してはアン同様にこだわっていた。幼い頃から周囲の樹木などに名をつけ、eのつかないMaudと自分の名の綴りを主張し、ペンネームの決定の際には出版社を相手にもめたこともあった。モンゴメリとキャロル、ふたりの作家の「名前」へのこだわりは、「アン」と「アリス」の性格形成に各々異なる形で反映されているようだ。
ところで、マーク・トウェインの「赤毛のアン」へのあの賛辞がなかったら、モンゴメリとキャロルを比べる書評家はいたであろうか。アンとアリスの関係は、私にはどうも不思議でたまらない。
本文中の引用は、「新注、鏡の国のアリス」第3章、高山宏 訳、東京図書、及び「赤毛のアン」松本侑子 訳、集英社に依った。
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